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第52回 グアダルーペ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回はエストレマドゥラの山奥の小さな村、しかし「全スペイン語圏」の守護聖母Patrona de todas las espanasを奉る聖地グアダルーペからです。

第52回グアダルーペGuadalupe
Parador"Zurbaran"スルバランのパラドール

グアダルーペに向かい登り道を上がって行くと、突如として目の前に壮大な修道院Monasterioが立ちはだかります。この修道院を取り囲むようにひなびた村落がかたまっています。
修道院前のサンタマリア広場には村の伝統工芸品である水差しや鍋といった銅製品を売っている土産物屋が数軒と観光客相手のレストランやバルが数軒あるだけのひなびた美しい味わいのある村です。

このような山深い修道院でありながら、エストレマドゥーラ地方は、メキシコの征服者コルテス、ペルーの征服者ピサロを輩出した地であり、コロンブスや、新大陸から連れ帰えった原住民はこの修道院で洗礼を受けたとされています。 
また、日本からの天正少年使節団も1584年にこの修道院を訪れています。

修道院前の道を右手に百mも行くと目的地のパラドールに着きます。道路も狭く、入り口も小さくて一瞬これがパラドールか?と思ってしまうかもしれませんが中に入ってみると案外と広いのに驚いてしまうでしょう。

今のパラドールのガレージがあるところに、このグアダルーペへの巡礼者のための旧サン・ファン・バウティスタSan Juan Bautista病院が15世紀に作られ、医学校もその中に設置されていました。この医学校はガレージの壁のタイルに記されているようにスペインで初めて人体解剖が行われたところです。
そして、この医学校からはカトリック両王に仕える医者も何人か出ているそうです。そして現在のパラドールのあるところには16世紀に貴族の子弟の通う学校が作られ、ここではラテン語、聖歌etcを学ぶために多くの学生が集まっていました。
元病院の施設らしく白を基調とした色使いで清潔で明るい感じのパラドールです。入り口からは想像出来ないほど中は広くなっています。オレンジのパティオ、プール、レストラン、サロン…。

部屋はすべてバルコニーが付いていて広々として雰囲気たっぷりのインテリアです。眺望を重視するのなら少し高台に建ち、バルコニーから修道院の全容が眺められる新館が良いでしょう。

モナステリオ(修道院)の見学はガイド付きのツァーのみで人数が十数人になるとガイドが見学者を引き連れて修道院内の美術・工芸品やムデハル様式の内庭回廊、スルバランの大作がある聖具室を見学させてくれます。所要時間は約1時間15分です。黒いマリア様を奉る教会内だけならば自由に入れます。
小聖堂カマリンCamarinに入ればグアダルーペの聖母を間近に拝むことができます。またパラドールにスルバランの名前が付いているのは修道院内に(Extremadura出身の画家)スルバランの絵があるからです。


☆ 黒のマリア様

グアダルーペの歴史は1320年、聖母マリアのお告げを受けたヒル・コルデロという名の一人の羊飼いがグアダルーペの川の近くから聖母マリアの木像を掘り返した時から始まります。この木像こそ714年に聖ルカが彫りセビージャの教会に安置されていたマリア像だったのです。イスラム教徒に追われたキリスト教徒が密かに持ち出し隠しておいた聖母像が600年経って見つかったと言うのです。そして、この聖母像を安置するための祠が作られ、参拝者から続々と奇蹟が起こることになり、たくさんの参拝者が訪れるようになります。
1340年アルフォンソ11世がサラドSalado川の戦いに際しこの聖母像に加護を願い、モーロ軍を打ち破るのです。これに感謝したアルフォンソ11世によってこの地に壮大な教会の建設が始まりました。1492年の国土回復(レコンキスタ)によりスペインの守護聖母を奉る巡礼地としての絶対的な地位を占め、16-17世紀には王侯貴族も大衆もこぞって巡礼したと言います。

コロンブスによりカリブ海の島の一つに「グアダルーペ島」の名前が付けられ、新大陸にも名前が知られ、その後この地の出身である征服者(コンキスタドーレス)が連れ帰った新大陸のインディオ達にクリスチャンとして洗礼を受けさせたことで「全スペイン語圏(イスパニダーHispanidad)の守護聖母」となっています。

毎年10月12日は「イスパニダー」の日として盛大な聖母像を乗せた行列がねり歩きます。

by“よっぴ”