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第53回 トルヒージョ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
これまで「No.50ハランディージャ・デ・ラ・ベラ」「No.51カセレス」「No.52グアダルーペ」とエストレマドゥラ地方のパラドールを紹介してきました(この他「No.8プラセンシア」「NO.27メリダ」「No.28サフラ」もエストレマドゥラにあります)が今回は最後のパラドール、「トルヒージョ」を紹介しましょう。

現在でも、スペインでもっとも貧しいと言われるエストレマドゥラ地方ですが、大航海時代には多くのコンキスタドーレスを輩出して地元に富をもたらし、この成金達によって、このトルヒージョの片田舎にも多くの邸宅が建てられ、スペインでも特に美しい中世の町を作り上げてきました。

貧しいが故に「過去の栄光の町」のままで時間が止まってしまい中世の歴史を伝える街並みが数多く残り、スペインの美しい村として観光客の人気を集めているのです。

第53回トルヒージョTrujillo
名称Paradore de Trujillo

エストレマドゥラ地方は夏は酷暑、冬は厳冬、土地は痩せて現在でもスペイン中で最も貧しい地方なのです。こんな厳しい環境から我慢強い人間が多く、現在でも出稼ぎが一番多い地方と言われています。それゆえ、大航海時代には新大陸の富と名誉を求めて多くの若者をコンキスタドーレス(征服者)として中南米へと旅立たせたのでしょう。当地の出身者で南米ペルーを征服したフランシスコ・ピサロもその一人で、このトルヒージョのマヨール広場には成功者としてピサロの堂々としたブロンズの騎馬像が建っています。
この貴族の邸宅が立ち並ぶマヨール広場から歩いて5分、1533年に作られ1984年迄使われていたSanta Clara修道院を改装したのがパラドールです。

46室のうち18室は昔の尼僧院の修道女の部屋ですが残り28室は同じ様式で増築されたものです。
1984年に移転した新しい修道院はすぐ側に作られています。
中庭、そして取り巻く回廊には白い花崗岩が使われており、夕食時にレストランの一部として使われています。また各部屋は修道院の雰囲気を残すように小さな窓付きの黒いドアで修道女が与えられた個室をイメージしています。

当時の食堂も雰囲気はそのまま残しパーティー会議場として残されています。
レストランでは名物ハモン・イベリコはもちろん、修道院独自のデザートもメニューに見られます。



マヨール広場から10分程坂を上り詰めると城Castilloに着きます。高台にはとても美しい城壁を残していますが中には小さな礼拝堂が残るだけです。しかし、この城壁から望むトルヒージョの町とマヨール広場はとても素晴らしいのです。


☆ コンキスタドール(征服者)

コンキスタドールとは征服者、つまり新大陸に出かけてインディオを支配し統治した者を言います。新大陸の統治のために1503年「エンコミエンダ(信託)」の制度が作られ、信託を受けた私人「エンコメンデロ」は新大陸に出かけインディオを征服して社会的・経済的・宗教的に支配して、その富をスペインに持ち帰り分け前を得たのです。この一攫千金を夢見て出港地セビージャに集まってきたのがエストレマドゥラ地方の貧農民たちでありました。
この金銀の輸入を管理していたセビージャ商務院には一世紀半の間に、それまで全ヨーロッパの保有していた銀の三倍の160万トンもの銀が持ち込まれたと言います。同様に金も全ヨーロッパの5分の1の量の18万トンに達したのです。しかし、この間にコロンブスの最初の航海から二世紀の間に90%以上のインディオが略奪や強制労働で殺されたと言います。

この悪名高いコンキスタドールの中でもっとも有名なのが600名の兵士を率いて1521年アステカ帝国(現メキシコ)を滅ぼしたエルナン・コルテスと、1531年わずか180名あまりの兵士でインカ帝国(ペルー)を壊滅させたフランシスコ・デ・ピサロでしょう。コルテスは何の武器も持たない六千名ものインディオを一同に集めて閉じこめ一人残らず槍や剣で殺したといいます。

一方ピサロは、村で殺戮や略縛を繰り返し、怒って攻めてきたインカ帝国13代皇帝アタバリバを逆に捕虜として捕まえ、1500万カステリャーノ(67500kg)もの金を差し出させ、挙げ句の果てに火あぶりの刑に処してしまうのです。

こうした惨状を目にしたラス・カサス神父はインディオの人権を護るようにカルロス1世、そしてローマ法皇にも訴えるのですが、インディオス征服を聖戦とみなすスペイン人からは逆に非国民扱いされてしまうのでした。

by“よっぴ”